父の著書「裁かれるのは誰か?」をブログ連載する前に
父の生い立ちから書かなければならない。
私の父・大谷季義は大正8年1月26日に大分県国東郡大田村小野
に大谷學次郎とフサの長男として生まれた。
學次郎は再婚だったため、56歳の時の初めての子であった。
學次郎は当時郡会議員を務めるなど、村ではかなりの名士であったが
59歳で緑内障のため、両目を失明。
資産家であったが、後妻であるフサが都会に出ることを
強く切望。田畑をすべて売り払い、別府に転居。
出てきた当初は、かなりの現金もあったが(旅館生活をしていた)、
盲目であった學次郎は
騙され、あっという間に貧乏のどん底に陥ってしまった。
三味線の名手であった祖父は幼い季義に手を引かれ、別府の温泉街
を物乞いをして歩いたという。
家にいるときは、學次郎は大変は学問のある人だったので、
父季義を膝にのせて
歴史を教えたという。父の服はいつも汚く、ボロボロだったので、
学校へ行くと、担任からひどいいじめにあう。
「松井」といって父は生涯許さなかったようだ。
この担任のいじめにより、ほとんど学校には行っていない。
別府の街でチンチン電車の車掌などやっていたようだ。
16歳の時、陸軍通信学校を受験。一つの県から一人しか
受からない難関を突破。東京に出る。
陸軍通信学校は相模原市にあり今は、相模女子大となっている。
通信学校のタイピストだった幸子と結婚。
広島、佐賀と部隊を転々。終戦後、幸子の実家相模原市に移り住む。
横浜で通訳(何でもすぐに覚えてしまう語学の天才)、電機屋、リヤカー
を引いて八百屋(知っている人が来ると恥ずかしくて隠れてしまうので
一つも売れなかった)
道元坂で草履売りなどいろいろやっていたみたい。
昭和30年、自衛隊に入隊。
恵比寿の防衛研究所に勤務。
私が小学校の時、父がアメリカのハーバード大学に
国費留学が決まった。
ある日、あの陽気な父がしょんぼりと帰ってきたのを
覚えている。なんでも、ハーバード大学行きはダメになったという。
理由は「大谷は頭は良いが学歴がない。高等小学校しか出ていない。
東大法卒の何々君に行ってもらうことにした」
父は泣いて悔しがった。
そんな事であきらめる父ではない。
「では、大学に行ってやろうではないか」。
それから、中央大学の通信教育で法律を勉強を始める。
4年間で、ほとんど全優にて卒業。
そして、私たち、兄弟3人がいながら、防衛庁を退職。
母が和文タイプを打ちながら生活を支える。
猛勉強の末、3度目の挑戦にて見事、最も難関といわれた
司法試験に合格した。
45歳であった。
父が男泣きに大声をあげて泣く姿は
今も忘れることは出来ない。母幸子さんに向かい手を突いて
「幸子さんありがとう」。
その後、貧乏な人からはお金も取らない正義の弁護士と
して、活躍した。
「自称刑事コロンボ」よれよれの黒いレインコートを着て
頭はぼさぼさで、いつも熱弁していた。
「正義は必ず勝つ! 弱い者をいじめてはいけない!」
こまやかな神経。
大まかな父。
垣根の無い人柄。
頑固の夢を追った父。
柳家金五郎のものマネを最も得意とした。
ユーモアたっぷりのおもしろい父であった。
そんな父の娘であることを誇りに思います。
大変な作業ですが、父の絶筆である
「裁かれるのは誰か」を私の使命と思い
これから何年もかけて、ブログ掲載していきます。
どうか、これをお読みの皆さまご鞭撻下さい。
もう沢山の叱咤激励のメールをいただいております。
杉浦 和子