今から、25年前に亡くなった父の手紙が出てきた。大正8年生まれ。いま生きていたら95歳。
父は、40歳を過ぎて、家庭を持ちながら、苦学の末(大学は通信教育)、猛勉強をして、当時難関ともいわれ
た
司法試験に3年目の挑戦で合格。正義派の弁護士になった。多くの困った人の救済弁護をした。
殆どが無償で。自称刑事コロンボで、ぼさぼさ頭。黒のカシャカシャのナイロン製のレインコ
ート。ちんちくりん。超おしゃべり。漫才師も顔負けのユーモア。
超多忙な毎日。その過労がたたってか、
63歳で新宿西口広場で脳出血で倒れ、7年間入退院を繰り返し
70歳で亡くなった。
私は中学のころから、父と手紙のやり取りをしていた。
今日、引き出しを整理していたら、父からの手紙が出てきた。
少し長いが、今日の私の人格を形成した基本となる手紙なので
ここに記す。
「15歳の時、父からの手紙」
和子様
和子ちゃんは大変良い子だが一つだけ注意しておきたい。
人は顔の形が違うように性格とか考え方が皆違っている。
だから相手方に好き嫌いができる。
これは誰も皆同じでないので仕方のないことだ。
自分の個性、すなわち性格と相手の個性とが合わない場合はよく、いろいろな事で
いさかい、口論、感情の激発が生じる。
和子ちゃんはもう、大人にならなければならない。今までは私たちは小さいから
、子供の可愛さ、無邪気さとして見ていたことも、だんだん大きくなるとその見方
も違ってくる。それは心の成長とともに考え方も成長していかなければならないからだ。
高校生になるともう一人前の女性として扱われる。それは両親からだけでなく、世の中
の人が皆そのような目で見る。人間は身体の発育とともに精神も伸展していかなければならない。身体が発達して心が伴わない人間は不具者だ。
心の発達とか、成長とは、考え方が円熟していくことだ。つまり、他人に対する寛容さ、
優しさ、親切さの度合いの高さ、深さをいうのだ。
それと、他人に対する憎しみ、怒り、劣等感の心を捨てることです。
これは、中々、難しい。だが、難しいからと言って放っておいてよいものではない。
絶えず、修養に努めなければならない。
人生の難しさはここにある。特に他人を憎んだり、恨んだりすることはよくない。
女性の立派さ、教養の豊かさというのは、心の優しい、親切心のあることをいうのです。
昔、ギリシャのアリストテレスという哲学者は「教養と学問とは無関係であって、人の心
の美しさをいう」といったことを胸に刻みこんでいなければならない。
いかに大学を優秀で卒業しても、どんな、秀才でも、必ず教養があるとはいえない。
たとえ中学だけ卒えた人でも立派に優れた教養を持っている人がいる。
学校の目的、いわば学校に行く目的もいろいろな学問、知識を吸収することによって
心を磨き、優雅な人となるためなのだ。
学校は知識の場であるとともに精神修養の場であることを忘れてはならない。
しかし、学校教育を一面からみて試験とか、宿題とか、論文とかで、あたかも知識習得の
場であるかのような考え方をする人がいるが、それは間違いだ。
そして、それらの学問をする中に、その学問の過程で、自ら、自分の心の自覚で修養に努め
なければならないのだ。学校教育の場では、教養の育成等と誰も言わないし、教えてはくれない。自分で、自分の力で自分の考え方で努力することなのだよ。
和子はよく、自分の都合の良いように、それは「個人の自由だ」というが、
和子に個人の自由があるように、他人にも「個人の自由がある」
自分ばかりが、自由の持ち主ではないのだ。それで、誰もが、皆「個人の自由だ」と言って
自分ばかりを主張していたら、いったいどんな世の中になるだろうか。これを考えてみたこ
とがあるかね。そうだ人間は誰でも自由なのだ。自由は人間の本性である。
これはフランス革命の時に有名な人格宣言17条の中に示されている。しかしだよ、この自
由は決して無制限なわがまま勝手をいうのではない。
自由には秩序がある。人間は社会的な動物であるからロビンソンクルソーのような孤独生活
はこの文明社会ではできない。そこには対社会、つまり、自分以外の人間の存在することを忘れてはならない。
人の自由とか、幸福を自分個人の自由で無視したり踏みにじっては世の中は成り立たない。
お互いが助けあい励ましあい、慰めあいしていかなければならない。
友情とは、このような、心の中から生まれるのだ。決して、感情的な結びつきでできるもの
ではない。それは自分の人間としての本能的な考えの中から深い教養の力によって生まれるのだ。
和子はムキになっているが、自分がムキになる前に自分をよく振り返ってみる必要がある。
そして、常に人より謙虚に、控え目であることを忘れてはならない。
どうか、私のいうことをよく聞いて立派な女性になってもらいたい。
父 より