このコートは、刺し子の野良着2枚を合わせて、やっと1枚のコートに仕上げた。リバーシブル仕立て。
刺し子について 木綿が 貴重だった時代には、衣服を長持ちさせる方法が考え出された。特に棉花の育たない寒冷地東北地方では寒さに耐える衣服を用意しなければならなかった。木綿地を2~3枚重ねて木綿糸で刺していく方法を刺し子という。雪の季節が長く、家の中に閉じ込められ長い時間を囲炉裏を囲みながら手仕事としながら過ごした。野良で働くことができなくても、家の中でしなければならない仕事はたくさんあった。このような細かい刺し子が完成するまでに気の遠くなる作業を先人の女性たちは家族のためにやっていた。東北人の粘り強い気質が生んだものでしょう。
初誕生日の時に日本では1升餅を背中に背負わせる風習がある。子供に一生涯食べることに困らないようにと願いを込めた親心である。親が子を愛することは今昔も変わらないことであるのに、最近の子供虐待、育児放棄きなど、目を覆うような事件ばかりである。悲しいことである。
子供が、すくすくと健康で育つこと。これは本当に幸せのことである。家族のみんなが健康で暮らせること。なんでもない当たり前のことかもしれない。でも、この当たり前のことが、当たり前でなくなったときに人はどれほど、悲しみ、苦しむことであろうか。初孫のみちるは大きな病気もせず、すくすくの1歳の誕生日を迎えることができた。本当に幸せなことである。私は今から36年前に、生まれた長男は、天使のような可愛い子であったが、何百万人に一人という、血液の難病を持って生まれた。人並みの子供のように外で遊ぶこともできず、小児病棟の病室で、毎日、毎日苦しい闘病生活の末、1歳10か月という可愛い盛りの中、短い生涯を終えた。気が狂いそうだった。死ぬことばかり考えていた。病名を医師から告げられた時、「おたくのお子さんは幼稚園には行かれません」。何のことか分からなかった。後で考えてみたら、3歳までも生きられなかったという意味だった。こうしてすくすくと育っている初孫みちるを見ると、本当に幸せな気持ちで、いっつぱいになる。大きな声で笑い、病気一つしないみちるに神に感謝するのみである。お誕生日おめでとう!
対馬とは九州と、朝鮮半島の間にある島である。対馬の織り方は朝鮮の影響を非常に受けている。対馬麻についての文献、資料はほとんどない。たまたま読んだ民俗学者宮本常一氏の「女の民俗史」からやっと対馬麻のことを見つけることができた。それによると、素材は麻と棉で織られている。対馬では家の周りに麻坪といって麻ばかり作る畑があった。当時は、村の中に店を置くことは禁じられていた。城下町の厳原までいかなければ藍を染める紺屋が無かった。貧しい村人たちは町まで行く時間や経済的な余裕も無く、自分たちで藍に似たような植物染料(山藍の葉など)を探し染めた。昭和35年以降は、対馬麻を織る人も着る人もいなくなった。大変貴重な布から1枚のコートを作りました。
マリア書房 襤褸に生きる より
襤褸布団皮 山形県庄内地方 明治時代
兎に角、アートである。まるで抽象画を見るようである。手に入たのは15年前。山形県の骨董屋さんにて。裏を開いたときに驚いた。200枚以上のつぎはぎがしてあった。これが本当のパッチワークであろう。木綿は寒い庄内地方では育たなかった。北前船(18~19世紀)、大坂から、下関を経由して北海道江差に至る西回り航路に就航した船により古手の木綿着物が荷のパッキン替わりとして使われた。庄内の女性たちはその荷が来るのが何よりも楽しみであった。荷が着くと、その古手の木綿を皆で大切にし平等で分け合った。限りある材料で家族のために作られた、布団である。ここに先人女性たちの知恵と経験が染み込まれている。人に見てもらうことを意識したわけでは無いのに、美しい。
マリア書房 襤褸に生きる より